Osho: Talks on Duality and Self-Remembering

人間の二元性/その苦しみと可能性

人間とはジレンマだ。イエスとノーの両方だ。あなたがそのように感じるのは、あなたが異常だからではない。それは人間のあたりまえの状態だ。人間は、半分は地から、半分は天からできている。人間は、物質と意識からできている。塵と、神聖なるものからできている。人間とは緊張だ。ニーチェの言葉を借りれば、「二つの無限の間に張られたロープ」だ。[……]

人間は、その自然な状態で、分裂した存在だ。分裂は病気ではない、症状ではない。それは、人間としての正常な状態だ。イエスとノーが極端に分離し、"and"という言葉によって結ぶことさえできなくなったときにだけ、それは病気のように見える。イエスとノーの間に橋を架けられなくなったときにだけ、それは病的なものとなる。

さもなければ、あらゆる人間は、つねに二元性のなかにある。「あれでもない、これでもない」という状態にある。どのような動物も、けっしてそのような状態にはいない。犬は犬、ライオンはライオンだ。木は純粋に木であって、岩も純粋に岩だ。それらのなかには二元性がない。分裂がない。

人間とは二元的な存在、二重の存在、分裂した存在だ。これは人間にとって不運なことだが、大きな喜びの可能性を約束するものでもある。これは人間にとって苦しみだが、その苦しみのなかから、大きな喜びが生まれる。どんな動物も、人間に可能なほどの喜びを感じることはない。[……]

空を飛ぶ鳥は自由に見えるが、自由について何も知らない。ただ人間だけが、たとえ牢獄のなかにいても、自由について知っている。だから人間は苦しむのだ。一方では自分の束縛に気づきながら、一方では自由の可能性に気づいている。一方では現実を、みじめな現実を自覚しながら、一方ではとほうもない光に輝く可能性に気づいている。[……]

人間は、どんな動物よりも不幸せになれる。嘆き悲しみ、涙を流し、自殺したりする動物がいるだろうか。また、腹の底から大笑いする動物がいるだろうか。それらは、人間だけに可能なことだ。そこに人間の偉大さがある。だが、その偉大さは、不安の源でもある。


(Osho "The Book of Wisdom" #16)

参考――グルジェフの著作より

そして、わが孫よ、テトラトコスモス[有機体]のなかに、この新しい層["太陽"から到来する意識の光を宿した部分]が完成し、その体内で独立して機能するようになったならば、それはもはやテトラトコスモスではなく、存在[being]と呼ばれる。「存在」とは元来、「二つの本性を有するもの」という意味であり、この第二の層を「ケスジャン体」と呼ぶ。

(『ベルゼバブが孫に語った物語』三九章)


注意の分割 ――コインの両面を見る

生は、対立する両極の間に起こる。だが、マインド[自動機械としての頭]は、片方の極にしか注目しない。マインドは、片方に注目し、それがすべてだと思う。たとえば、「私はこの人を愛している。単純に愛している。どうしてこの人を憎めるだろう。私が愛するとき、それは純粋な愛であって、憎しみは不可能だ」と考える。頭の考えることは論理的のようだが、じつは誤っている。愛が憎しみを可能にする。憎めるのは、愛するからだ。

それはコインの両面だ。あなたは片面を見て、逆の面を無視するが、逆の面はつねにそこに控えている。あなたが左に動くとき、あなたは右に戻るための力を蓄えている。

物事の両面を見たなら、マインドはどうなるのか。そのときマインドは存続できない。[……]

生の非論理性、対立と矛盾を通じて発展する生の様相を目にしたら、あなたはマインドを捨てざるをえない。マインドは単純な説明を求めるが、生に、そのような説明は通用しない。

Osho "The Book of Nothing" #8)


注意の分割 ――第三の存在

真の認識は、主体と客体という二つの点のあいだに架けられた橋だ。

ふつう、あなたの認識は、認識の客体をしか開示せず、認識の主体は知られざるままだ。ふつう、あなたの認識は、ひとつの方向に向かう矢のようだ。それがバラを指差すことがあっても、あなた自身を指差すことはない。それがあなたを指差さないかぎり、そうした認識は、世界については教えてくれても、あなたがあなた自身を知ることを許さない。

あらゆる瞑想の技法は、認識の主体を開示するためのものだ。ゲオルギー・グルジェフは、この技法を教えた。彼はそれを自己想起と呼んだ。なにを認識する際にも、認識の主体を覚えていなさい、と彼は言った。客体のなかに我を忘れてはならない。主体を覚えていなさいと。

いまあなたは、私の話を聴いている。私の話を聴くときも、あなたはふたつの方法で聴くことができる。ひとつの方法として、注意を私に集中させるならば、あなたは、私の話を聴いているあなた自身を忘れる。そうしたら、話をしている者について知ることはできても、話を聴いている者について知ることはできない。話を聴きながら、話し手と聞き手の両方を知りなさいと、グルジェフは言った。

あなたの認識は、認識の主体と客体という二つの点を指す<両向きの矢>のようにならなければいけない。それは対象だけに向かう、一方通行の流れであってはならない。それは同時に、認識の主体と客体という、二つの方向に流れなければいけない。グルジェフはこれを自己想起と呼んだ。

花を見ながら、花を見ている自分自身にも留意しなさい。これはむずかしい。これを試み、認識の主体である自分自身を意識しようとすると、今度はあなたは、バラを忘れる。あまりに一方通行に慣れてきたので、これができるまでには時間がかかる。主体を意識すると客体を忘れる。客体を意識すると主体を忘れる。

だが、ちょっとした努力をすれば、だんだんに、両方を同時に意識できるようになる。そして両方が意識できたとき、それをグルジェフは、自己想起と呼ぶ。これは仏陀が用いた太古の技法のひとつであり、グルジェフは、それをふたたび西洋にもたらした。

仏陀はこれを正念と呼んだ。注意が一点だけにしか向かっていないとき、あなたの注意力は正念の状態にはないと、彼は言った。それは二つの点に向かっている必要がある。そしてそのとき奇蹟が起こる――主体と客体の両方を意識するとき、あなたは第三のもの、そのどちらでもないものとなる。ただ主体と客体の両方を意識しようと努力するだけでいい。そのことにより、あなたは第三のもの、観照する意識になる。


(Osho "Vigyan Bhairav Tantra -- A New Commentary" #61)


エゴ想起の危険性

[受動的に見守るという瞑想の技法よりも自己想起のほうが簡単だと言う質問者に対しての応答]

それは簡単に見える。それが簡単に見えるのは、あなたが自己想起を試すとき、それは真の自己想起ではないからだ。それはエゴ想起になってしまう。それだから簡単に見える。あなたは真の自己と偽りの自己の区別を知らない。偽りの自己とは、エゴであり、それはとても微妙で狡猾だから、あらゆる方法で、真の自己のふりをする。[……]

何人かの人は、自己想起を通じて到達した。ゲオルギー・グルジェフは、自己想起のメソッドを使った。だが、彼の弟子のひとりとして光明を得ていないことに注意しなさい。

グルジェフは完璧なマスターだった。だが、真の自己とエゴとは、あまりにも混同されやすいというのが問題だ。あなたが真の自己だと思い込んでいるのは、九十九パーセントの確率で、エゴにすぎない。このメソッドを試みるなら、自分のエゴを破壊してくれる師が絶対に必要だ。容赦ない師が必要だ。師があなたのエゴを破壊しないかぎり、自己想起の試みは、あなたを光明に導くのではなく、存在のより暗い境地へと、あなたを導いていく。


(Osho "The Sword and the Lotus" #10)

参考――グルジェフの著作より

私は、次のことに気づき、人々と会う機会を重ねるにつれ、さらにこれを確信するようになった。それは、私の思想について何らかの知識を得て、関心を持つに至ったあらゆる男女、なかでも特に、私の思想に基づくものとされる何らかの試みの実践をすでに始めている人々の精神には、何か「まずい」ことが起きているということ、人を観察する方法を多少なりとも知っていれば、どんなふつうの人でも気づくような、確実に「完全にまずいこと」が起きているということである。

(『生は「私が存在する」ときにのみリアルである』 アメリカでの講話のイントロダクション)

……いわゆる「自己観察」の問題、これに関する知識の概要を教わることは、真実をこれから学ぼうとして努力する、どんな人にとっても欠かせないことではあるが、これが人間の精神の重心となってしまうと、それは、私が遠い昔に確認および立証したとおり、いまここにいるあなたがたのなかに私が見ているような、大いに気の毒な結果をもたらさずにはいない。

(『生は「私が存在する」ときにのみリアルである』 アメリカでの第二の講話)