Osho: Movements and the Purpose of Life

生の目的/動き

[生の目的は何でしょうという質問に対する応答]

あなたは、機械の一部だけが動いている状態にある。それを時計だとしよう。秒針は動いているが、時針も分針も動かない。

そんな時計を見て、その目的がわかるだろうか。そこに動きはある。一部は動いている。だが。全体が動かないかぎり、そして調和のなかで動かないかぎり、そこに歌は生まれない。

だが、だれもがそのような状態にある。あなたは手足を動かすが、ダンスにはならない。 あなたはうるさく音をたてるが、歌にはならない。ダンス、歌、そして生きることの意義は、全体が調和のなかで動くときに、はじめて体験される。

そのとき、あなたは 「生の目的は何でしょう」などという質問はしない。あなたは自ら答えを見いだす。

Osho "From Ignorance to Innocence" #23)


動き/機械性からの解放

仏陀はダンマパダ[法句経]のなかで、二つの言葉を何度もくりかえす。

ひとつは「エス・ダンモ・サナンタノ」という言葉。「これは生における究極の法である」――人は自らを消し去ることで自らを発見する、という意味だ。 消滅することで発見する。きわめて逆説的ではあるが。

もうひとつ、仏陀がくりかえすのは、「エス・ダンモ・ヴィシュッディヤ」という言葉。「これは純粋性の法である」という意味だ。純粋性とはどういう意味か。マインド[自動機械としての頭]から非同一化しなさい、という単純なことだ。自分をマインドと同一視するのをやめなさい。仏陀は、思考は敵だとか、頭を使うなとか言っているのではない。頭は使いなさい、頭に使われてはいけない、と言っている。ふつう、人は頭に使われている。あなたは奴隷だ。主人が奴隷となり、奴隷が主人になってしまった。

これではすべてがあべこべだ。あなたは逆立ちしている。そんな状態で、どうして歩いたり、動いたり、踊ったりできるだろう。逆立ちしたまま、どうして踊れるだろう。

あなたが逆立ちしているならば、人生は動きを欠いたものとなる。生は沈滞し、よどんだ水たまりのようになる。やがて悪臭を放つだろう。逆立ちしているかぎり、あなたは不自由で、麻痺している。

ふたたび両足で立ちなさい。これはちょっとしたことだが、それによって大きな変化が起こる。あなたは突然、動けるようになる。そして、動きとは、生命の本質だ。死とは、動けなくなることを指す。

死というものを、あなたはどのように思っているか。人がどんなかたちでも動けなくなったとき、われわれは、その人は死んだと言う。呼吸できない――呼吸は動きだ。見ることができない――見るというのも動きだ。歩けない、しゃべれない――しゃべるというのも動きだ。それらはすべて、ある特定の次元での動きだ。どんな動きも不可能となったとき、その人は死んだと言われる。

多彩な動きに満ちれば満ちるほど、生命に満ちる。さまざまな次元での動きを求めなさい。だが、それにはまず、逆立ちをするのをやめなければならない。まずは自分の姿勢を正しくしなさい。

Osho "Dhammapada" Vol. 1 Chapter 9)