なぜアクティブ・メディテーションが必要なのですか

(Osho: The Psychology of the Esoteric, #4)

 

現代人というのは、まったく新種の人間だ。現代人は、これまでいたことのないような人間だ。だからどんな伝統的なメソッドも、厳密に見るならば、彼らには向いていない。言ってみれば、すべての伝統的なメソッドは適切でなくなってしまった。

たとえば、身体は大きく変化した。とても汚染され、どんな伝統的なメソッドも助けにならない。いま地球をとりまく環境全体が人工的だ。大気、水、社会、生活をとりまく状況、何ひとつ自然ではない。あなたは人工的な環境のなかで生まれ、そのなかで育つ。だから伝統的なメソッドは、今日では有害だと証明されるだろう。それらは、現代人にあわせて変えてやる必要がある。

また、精神の質も基本的に変化した。パタンジャリ(もっとも有名なヨガの注釈者)の時代には、人の中心は頭ではなくハートにあった。それ以前は、ハートでさえなかった。それはもっと低く臍に近いところ、あるいは、臍よりもさらに低いところにあった。いまや、中心は頭にある。だから、クリシュナムルティのような教えが気に入られるのだ。どんなメソッドも、どんなテクニックも必要ではなく、ただ理解だけあればよいという。だが、それがもし言葉のうえでの理解、知識だけだったなら、それは何も変えず、何の変容も起こらない。またもや、ただの知識の蓄積になる。

私は、整然としたメソッドより、むしろ混沌としたメソッドを使う。混沌としたメソッドは、中心を頭から下げるのにとても役立つからだ。どんな系統的メソッドも、中心を押し下げることはできない。系統化することは頭の働きだからだ。系統的メソッドによって頭は強められ、もっと多くのエネルギーがそこに注ぎ込まれるだろう。混沌としたメソッドをするとき、頭は無用だ。それは頭とは何の関係もない。メソッドがあまりにも混沌としているので、中心は自動的に頭からハートに押し下げられる。もしあなたが、 ダイナミック メディテーションという私のメソッドを、強烈に、無秩序に、混沌と、行なうならば、あなたの中心はハートに移動する。そのとき、浄化が起こる。

浄化は必要だ。なぜなら、あなたのハートは頭のせいで、とても抑圧されているからだ。頭があなたのありかたにおいてあまりにも優勢になり、それがあなたを支配している。ハートにはどんなスペースもなく、その切望は抑圧されている。あなたは心から笑ったこともなければ、心から生きたこともないし、心から何かをやったこともない。物事を系統化しよう、物事を数学的にしようと、いつも頭がでしゃばり、ハートは抑圧される。だからまず意識の中心を頭からハートに落とすため、混沌としたメソッドが必要となる。

だから、ハートの重荷を降ろすために、ハートの抑圧を解き放つために、ハートを開くために、浄化が必要だ。ハートが軽くなり、重荷が降りたら、意識の中心はますます下に押される。それは臍に落ちる。臍は活力の源だ。そこからすべての他のものがやってくる。それが源泉だ。身体、精神、そしてすべてが、そこからくる。

私はこの混沌としたメソッドを、深い思慮のうえで用いている。秩序だったメソッドは、いまや助けにならない。頭はそれを自分の道具にしてしまうからだ。献身的な愛の歌をただ唱和することも、いまや助けにならない。ハートがあまりにも重荷を負っているので、それがほんとうの唱和として花開くことはありえないからだ。意識が源に、根に降りなければならない。そのときにだけ、変容の可能性がある。だから私は、混沌としたメソッドを、意識を頭から下に降ろすために用いる。

あなたが混沌のなかにあるとき、頭は働きを止める。たとえばあなたが車を運転していて、突然だれかが目の前に飛び出して来たら、あまりにも瞬間的な対応が必要なため、頭はそれに応えられない。頭には時間が必要だ。それは、どうすべきでどうすべきではないかを考える。だから、あなたが事故の可能性を前にしてブレーキをかけるときはいつも、臍のあたりに何かを感じるだろう。あたかも、あなたの胃が出来事に対処しているかのように。事故によって、あなたの意識は下に降ろされた。もしもその事故が事前に予期できていたなら、頭はそれを処理できただろう。しかし、あなたが実際に事故に遭うとき、何か未知のことが起きている。そのとき意識が臍に動くことに、あなたは気づく。

禅僧に「あなたはどこで考えるのか?」と聞いたら、彼は腹に手を置く。西洋人が最初に日本の僧に会いに来たとき、彼らは理解できなかった。「ナンセンスだ! どうやって腹で考えるというんだ?」

しかし、禅が言うことは意味深い。意識は身体中のどのセンターでも働ける。もっとも本源に近いセンターは臍だ。頭は本源からもっとも遠い。生命のエネルギーが外向きに動いているなら、意識の中心は頭になる。生命のエネルギーが内向きに動くなら、究極的には臍が中心になる。

混沌としたメソッドは、意識をその根っこに押し下げるために必要だ。なぜなら、根からのみ変容は可能だからだ。さもなければ、あなたがいくら言葉だけを並べ続けても、変容は起きない。何が正しいのかをただ知るだけでは充分ではない。あなたは根から変わらなければならない。そうでなければ、あなたは変わらない。

ある人が何が正しいかを知っているのに、それについて何もできないとき、彼は二重に緊張する。理解しているけれど、どうすることもできない。理解というものは、それが臍――根からやってくるときにだけ、意味を持つ。頭だけで理解しても、それがあなたを変容することはない。                                                       

頭を通して究極的なものを知ることはできない。あなたが頭から動いているとき、あなたは自分の源である根と衝突しているからだ。あなたの問題のすべては、臍から離れてしまったことにある。あなたは臍からやってきたし、そこを通って死んでいく。人は根に帰ってこなければならない。しかし、それは困難で骨が折れる。

伝統的なメソッドが人々の興味を集めてきた。なぜならそれらはとても昔からあり、過去にとてもたくさんの人がそれによって到達したからだ。それらはわれわれには無効かもしれないが、ブッダ、マハヴィーラ、パタンジャリ、クリシュナにとっては有効だった。それらは意味深く、助けになった。古いメソッドは今ではおそらく無意味なのに、ブッダがそれによって到達したがゆえに、それらは人気がある。伝統主義者はこう思う――「ブッダがこのメソッドによって到達したなら、なぜ私にもそれが起こらないんだ?」。

しかしいま、われわれはみな、当時とは違った状況にある。環境全体、そして思考の領域全体が変わってしまった。どんなメソッドも、ある特定の状況で、特定の精神を持った特定の人々に対して、有機的な効果を発する。古いメソッドは役に立たないというのは事実だが、どんなメソッドも役に立たないということではない。ただ、メソッそのものを変えなければならない。現在の状況を見ると、現代人はあまりにも変わってしまっている。だから新しいメソッド、新しいテクニックが必要だということだ。

戻る


Osho Tara Meditation Center | Home