これらの講話の持つ「目的」

(Osho: The Invitation, #14)

 

 私の話し方は少し変わっている。世界中のだれも、私のようには話さない。技巧的にはよくない話し方だ。ふつうのほとんど倍の時間をかけている!  しかし、ほかの話し手は私とは異なった目的を持つ。私の目的は彼らの場合とはまったく違う。彼らは、それを準備してきたから話す。リハーサルしてきたことを、たんにくり返している。2番目に、彼らはある観念やある考え方をあなたに押しつけるために話している。さらに言うと、彼らにとって話すことは技巧だ。彼らはそれを洗練し続ける。

 私はいわゆる演説家や雄弁家ではない。私にとって話すことは、手段や技巧ではない。技術的には、私は日に日に悪くなり続けている! だが、われわれの目的はまったく異なる。私はあなたをあやつるためや、あなたに感銘を与えるために話すのではない。あなたを説得することでなんらかの目的をかなえようとして話しているわけではない。私はあなたを、キリスト教やヒンドゥー教、イスラム教、有神論あるいは無神論に改宗させるために話しているのではない。私はそうしたことに無関心だ。

 実際、私の話は、瞑想のためのひとつの方便だ。話すことがこのような目的で使われたことは、かつてなかった。私はあなたにメッセージを与えるためではなく、あなたのマインドの働き(頭の機械的な動き)を止めるために話す。

 私は準備なしで話している。私自身、何が次の言葉かを知らない。だから私は決してどんな間違いも犯さない。もし準備するなら、その人は間違いを犯す。私は決して何も忘れたりしない。なぜなら、その人がもし覚え続けているのなら、そのときは忘れることがあるからだ。だから私は、おそらくかつて誰もそれとともには話せなかったような自由とともに、話している。

  首尾一貫しているかどうかには、私は関心がない。なぜならそれが目的ではないからだ。話すことによってあなたを説得したりあやつりたい人は、論理的で道理にかない、あなたの理由を打ち負かさなければならない。彼は言葉を通して支配したい。

 私の目的はとてもユニークだ。私は沈黙のはざま(ギャップ)をただつくりだすために、言葉を使っている。言葉は重要ではない。だから私は、相反することや不条理なこと、関係のないことを突然言うこともできる。なぜなら、私の目的はただ沈黙をつくりだすことだからだ。言葉は二の次で、言葉のあいだの沈黙が主だ。これは、あなたに瞑想の一瞥(いちべつ)を与えるための単なる方策だ。そして一度あなたが、自分にとってそれが可能なのだと知ったなら、あなたは自分自身の実存の方向に向かい遥かな旅をしたことになる。

 この世のほとんどの人は、頭が静かになることが可能だとは思っていない。可能だとは思わないから、試そうともしない。いかに人々に瞑想の味わいを与えるかというのが、私が話すことの基本的な理由だ。だから私は、永遠に話し続けることができる。私が何を話しているかは問題ではない。ものごとのすべては、自分ひとりでは最初は難しいと感じるだろう沈黙へのいくつかのチャンスを、あなたに与えることだ。

 私はあなたに沈黙を強制することはできない。しかし、あなたが自然に沈黙に落ちるような方策をつくりだすことはできる。私が話している最中に、ひとつのセンテンスの途中であなたが次にくる言葉を期待しているとき、何も続かず、ただ沈黙のギャップがある。あなたのマインドは聞くことに注意をそそぎ、次にくる言葉を待っていて、それを逃したくはない。それであなたは自然と静かになる。かわいそうなマインドに何ができるだろう?もしどの瞬間に私が沈黙するかわかっていたら、いつ私が沈黙するかあなたにとって明白だったら、そのときあなたは考えることができるだろう。あなたは静かではなくなる。そのときあなたは知っている、「これが彼が沈黙しそうな瞬間だ。今、私はちょっと自分とおしゃべりすることができる」 と......。しかし、それは完璧に突然やってくる......なぜ、ある瞬間に私が止まるのか、私自身も知らない。

 このようなことは何であれ、世界中のどんな演説家においても非難されるだろう。なぜなら演説家が何度も何度も止まることは、彼がよく準備せず、予習をしてこなかったことを意味するからだ。彼の記憶力はあてにならず、しばしばどの言葉を使ったらよいか見つけられないことを意味する。しかし、それは弁論ではないのだから、私は私を非難する人々には関心がない。私の関心はあなたにある。

 ここだけでなく、はるか遠くの......世界のどこかで私の講話やビデオやオーディオを聞いている人々も、同じ沈黙に到達するだろう。私の成功はあなたを納得させることではない。私の成功は、あなたにほんとうの味わいを与え、瞑想はつくり話ではないこと、ノーマインド(無思考)の状態はただの哲学的な考えではなく、それは現実であり、あなたにはそれが可能なのだということ、そしてそれはどんな特別な資格も必要としないしないのだという確信を、あなたが持てるようにすることだ。

 私とともにあると、もうひとつ別の理由からも沈黙に落ちることはたやすい。私は沈黙している。たとえ話しているときも、私は沈黙の中にある。私の最奥の実存は、まったくまきこまれてはいない。あなたに話していることは、私にとって妨害でも、重荷でも、緊張でもない。私はこの上もなく、くつろいでいる。話しているかいないかは、私に何の違いもつくりださない。

 自然と、この種の状態はうつりやすいからだ。

 あなたを瞑想的な瞬間にとどめておくために、一日中話し続けることは私にはできないから、あなたに責任をとれるようになってほしい。あなたが沈黙できることを受け入れることは、ひとりで瞑想するときにあなたを助けるだろう。あなたの能力を知ること......そしてひとは、それを経験することによってのみ自分の能力を知るようになる。その他に道はない。

 私に、あなたの沈黙に対する責任のすべてをとらせないように。なぜならそれは、あなたに困難をつくりだすだろうからだ。ひとりであなたは、どうするつもりだろう? そうなったらそれは、一種の耽溺になる。そして私は、あなたに私に溺れてほしくはない。私はあなたにとっての麻薬になりたくはない。

 私はあなたに独立していてほしいし、これらの貴重な瞬間を自分で達成できる自信を持ってほしい。

 もしあなたが私とともにそれを達成できるなら、私なしでそれを達成できない理由はどこにもない。なぜなら、私が原因ではないからだ。あなたは何が起きているのか理解しなければならない。私を聞いていることで、あなたは自分のマインドを脇においている。

 波の音を聞くとき、雲間の雷鳴を聞くとき、激しい雨音を聞くとき、あなたのエゴをただ脇におきなさい。なぜならそんな必要はないからだ......。海はあなたを攻撃しないし、雨はあなたを攻撃しないし、木々はあなたを攻撃しない。そこにはどんな防御の必要もない。そのように生に対し、そのように存在に対し感じやすく開いていることで、あなたはこれらの瞬間を絶えず持ちつづけることだろう。まもなくそれは、あなたのまさに生そのものになる。

 あなたがどこにいようとも、家でも、職場でも、通勤途中でも、どんな物音やざわめきの存在も、内なる沈黙と静寂のスペースに向かって内側にうごいていく機会として、あなたは用いることができる。

 

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