Osho: Conscious Suffering and Unconscious Suffering

人間の眠り/絶望/道の始まり

[パタンジャリのヨガ・スートラに関するコメンタリー]

われわれは深い眠りのなかで幻を見て生きている。希望、未来、明日という幻。人は、その現在の状態では、自己欺瞞なしでは生きていけない。

ニーチェが言うには、人は真実と共には生きられない。夢、幻、嘘なしには生きられない。ニーチェの言うことは本当だ。人間は、その現在の状態では、自己欺瞞なしでは生きていけない。これを深く理解する必要がある。これを理解しないかぎり、ヨガと呼ばれる探求の道に入ることはできない。

マインドを深く理解する必要がある。嘘を必要とするマインド、幻を必要とするマインド、リアルなものには直面できないマインド、夢を欲しがるマインドを。人は夜にだけ夢を見るのではない。目をあけているときでさえ、あなたは夢を見ている。[……]

現在というのは、多くの場合、地獄を意味する。この地獄を我慢できるのは、未来に希望を投げかけているからだ。明日を夢見ているから、今日を生きられる。明日には何かいいことが起こる、楽園の扉が開くかもしれないと、あなたは思っている。それが今日起こることはない。だが、その明日がやってきて、明日が今日になったとき、あなたのマインドは、そのまた先のことを考えている。あなたはいつも、自分がいるところの先を見ている。夢を見ているというのは、まさにそういうことだ。あなたは、現実と結ばれていない。いまここに、身近にあるものに触れていない。あなたはよそにいる。自分の先回りをしている。[……]

このようなマインドは、ヨガの道に入れない。ヨガとは、真実を知るためのメソッド、夢を見ない精神に到達するためのメソッドだ。ヨガは、いまここに在るための科学だ。ヨガは、未来に想いをはせるのをやめる覚悟ができたということ、希望を捨てる用意がある、自分の存在の先回りをすることをやめる準備ができたという意味だ。ヨガとは、ありのままの現実に直面することだ。

だから、自分のマインドに飽き飽きした人だけが、ヨガの道に入れる。自分のマインドを使って何かが得られると、まだ期待しているならば、ヨガは、あなたに向いていない。全面的な不満が必要だ。未来に想いをめぐらせるこのマインドは無益なこと、希望しつづけるこのマインドは馬鹿げていること、それによって人はどこにも行き着けないことを、はっきりと悟ることが必要だ。それはあなたの目を閉ざしてきた、あなたに麻酔をかけてきた。それのおかげで、あなたは現実を見ないでいられた。それはあなたを現実から護ってきた。[……]

マインドは麻薬だ。マインドは真の世界に敵対する。だから、自分のマインド、自分の存在の有様、自分のこれまでの生き方に完全に幻滅し、それらを無条件に落とさないかぎり、道には入れない。

多くの人々が興味は持つが、道に入る者はわずかだ。あなたの興味というのは、マインドの興味かもしれない。今度はヨガを試してみたら、何かが手に入るかもしれないと期待している。そこには、達成に向けての欲望があるかもしれない。ヨガを通じて完璧な人間になる、完璧な存在となって至福を体験するといった。[……]そんな理由でヨガに興味を持っているならば、あなたと、ヨガの道の間には接点はない。あなたは、完全に逆の方向に動きたがっている。

ヨガとは、「もはや希望はない、もはや未来は無意味だ、もはや欲しいものはない。だが、私には、ありのままの現実を知る覚悟がある。物事がどうなりうるかとか、どうあるべきかとかには興味がない。私は、ありのままの現実に興味がある」という宣言だ。リアルなもの、真の世界の体験だけが、人を解放するのだから。[……]

完全に絶望しなさい。未来と希望を捨てなさい。これは難しい。リアルなものと向かい合うには勇気がいる。だが、どんな人間にも、たまにはそうした絶望が訪れる。完全な絶望、完全な無意味さを感じるときがある。自分がしているすべてのことは無益であり、どんなに奮闘してもどこにもたどり着かないことを知ったとき、突然、希望は失せる。未来は消える。そのときはじめて、あなたは真の世界に対面する。

Osho "Yoga - The Alpha and the Omega" Vol. 1 #1)

[参考]
Ravi Ravindra 著 "Heart without Measure - Work with Madame Salzmann"(Shaila Press) によれば、マダム・ド・サルツマンは、この講話録を読み、感銘の意を表明した。


グルジェフ/ワーク/魂の闇夜

[グルジェフの弟子の回想録に引用されたグルジェフの言葉についてのコメンタリー]

ただグルジェフだけが、グルジェフのような人物だけが、このような言葉を口にできる。だが、彼の言うことは真実だ。彼は次のように言った。

「ありふれた人間は、けっして真の苦しみと悲しみを感じない。彼らは、機械的な、決まりきった人生を生きるからだ」

彼らは苦しまないわけではないが、彼らは苦しみに慣れている。また、彼らの苦しみは抑圧されている。彼らは意識の表層でだけ生きており、その下には巨大な地獄が隠されている。たまにこの地獄が表面化するときもあるが、概して、ありふれた人間は、自分のなかにどれだけの苦しみと惨めさがあるかを知ることなく、人生を終える。

ある意味では、そういった人間は好運だ。だが、別の意味では、このうえなく不運だ。なぜなら、いったん自分の苦しみと惨めさを自覚したならば、その人がこの無意識の状態と、決まりきった機械的な人生から抜け出して、目を覚まし、意識的な存在となるのことを、だれも妨げられないからだ。[……]

だから、ある意味では彼らは好運だが、ほんとうに好運なのではない。ほんとうに好運なのは、グルジェフが次のように語った者たちだ。

「ふつうではなく、必須でもない、ワークという重荷を、自ら望んで引き受けた者」[……]

ワークとは、無意識を掘り下げること、可能なかぎり深く、その根底にまで達しようとすることだ。自らの生命の生きた源泉に到達するまでの旅路では、大いに苦しまなければならないだろう。

それは必須ではない。ありふれた人間として人生を送ってもよいのだから。だれもこんなことをしろと、あなたに迫っているわけではない。これはふつうではない。というのも、ふつうの人間は、教会に行くことはあっても、自らの内面を探索しようとすることはないからだ。[……]

グルジェフはこれを「ワーク」と呼んだ。きわめて聡明で、勇気がある、強い人間だけが、この仕事をするからだ。というのも、そんなことをせずとも生き長らえることはできる。駅長として、ビジネスマンとして、サラリーマンとして、あるいは坊主としての人生を、ただまっとうすればよいのだ。苦しみや悲しみのなかに入っていくことは必須ではない。[……]

ありふれた僧侶や坊主は、美しいことばかり口にする。善行、美徳、慈善、分かち合いといったことにより、人は神の王国に入れるのだと説く。実際には、それほど簡単ではない。その前にまず、自分の無意識をまるごと相手にして、決着をつけなければならない。自分の無意識をくぐり抜けるこの過程を、かつての神秘家たちは、「魂の闇夜」と呼んだ。

きわめて聡明な人間だけが、必須ではない、この重荷を引き受ける。

「そのような者だけが、本物の悲しみとハートの落胆を知る。そのような者は、ありふれた人生が提供するのとは違う苦しみや圧力を体験することになるのだから」

人は表層で生きることもできる。魂の闇夜を避けることもできる。だが、魂の闇夜を避けるならば、自分のなかに秘められた宝を目にすることもない。自分の生の意味、存在の意味のすべてに対して、背を向けることになる。だから、聡明な人は、挑戦を受け入れ、際限なく続くかのように見える、この暗いトンネルに入っていく。だが、ある日、必ず、このトンネルは終わるのだ。このトンネルを通過して逆の側に行った人々がいることを知り、勇気をもって進むならば……。これが師と共にあることの美しさだ。少なくとも一人の人間が、このトンネルを抜けたところにいて、そこから自分を呼んでいることを、あなたは理解できる。トンネルに入らなければ、それを抜けることはできない。それを迂回する道はない。

世界には、無数のイカサマ教師がいる。彼らは、闇を迂回する方法、苦しみと悲しみを通り抜けることなく、ただ単純に悟りを開く方法について教えるのを仕事にしている。超越瞑想とか称して、特定のマントラをくりかえして唱えれば、覚醒した魂になるといった方法を教えている。そこには何の脈絡もない。それは真のワークではない。そんな方法によって、無意識をどうできるというのか。[……]

苦しみと悲しみのなかに入っていき、その先へと抜ける、というのが正しい道だ。すでにこの道を抜けていった者がいることを知ったうえで、苦しみと悲しみをかき分けて進んでいく。そのために、師が身近にいることは、絶対に必要なわけではない。あなたにハートがあり、信頼があったなら、二十五世紀前の仏陀さえ、その役を果たせる。それはあなたの信頼次第だ。

Osho "YAHOO! The Mystic Rose" #14)


主観的な苦しみと客観的な苦しみ

「心の痛み、みじめな気持ち、悩み、そして深い苦しみ(anguish)を捨てるには、どうしたらよいでしょうか?」と、あなたは尋ねる。この質問は、あなたの無理解のたまものだ。

心の痛み、みじめな気持ち、悩みは、捨てることができる。それらはあなたがこしらえたものなのだから、あなたには、それらを引っ込めることもできる。あなたの助けなしには、それらは存続できない。それらはあなたのエネルギーを吸っている。それらは寄生虫だ。だが、あなたはそれらを捨てられる。

深い苦しみは、スピリチャルなものだ。それは捨てるべきものではない。むしろ、それにもっと親しまねばならない。あなたがそれに背を向けているうちは、それは苦しみのように感じられる。だが、それに面と向かうならば、それは喜びに変わる。だから、それを捨ててはいけない。

それは、あなた個人のものでさえない。だから、それを捨てることはできない。たとえこの祝福を捨てたいと思っても、あなたには、それを捨てる力はない。それは、あなたの本性に根ざしたものだ。

あなたが自らに向かい合っていないとき、それは深い苦しみとして感じられる。あなたが自らに向き合うとき、その苦しみは、このうえない祝福となる。だから、[個人的な]悩みと深い苦しみとを、混同して語ってはいけない。その混同は、あなたが、あなた自身の内面の世界をまったく知らないことを示している。

心の痛み、みじめな気持ち、悩みは、すべて外面的なものだ。深い苦しみとは、内面的なものだ。深い苦しみとは、あなたがそれとともに生まれたものだ。

心の痛み、みじめな気持ち、悩みは、あなた自身がこしらえたものだ。だから捨てるのが難しい。あなたはそれらの親で、それらはあなたの子供なのだ。

Osho "From Darkness to Light" #9)

参考――グルジェフの著作と講話より

三脳の生き物の広義の身体には、万物を愛され、長きにわたりお苦しみになっている<われらが永遠の創造主>から流出した<悲しみ>の粒子が宿されている部分があり、良心と呼ばれる衝動をもたらす諸要因が三脳の生き物の広義の身体にもたらされるのは、その広義の身体におけるこの部分からである。三脳の生き物の内面における真正な良心のあらわれが創造主の代弁者とも呼ばれるのは、このためだ。

そして、われらが<万物の維持者・共通の父>のこのような悲しみは、<大宇宙>でつねに進行する喜びと苦しみの間での闘いから生じるのである。

われらが<大宇宙>のあらゆる三脳の生き物――そしてもちろん、われわれ地球の人間たち――の内側には、われわれの広義の身体に良心と呼ばれる神聖な衝動をもたらす諸々の衝動があるために、われわれの<全体>ならびにわれわれの本質は、その根底において、苦しみでなければ、苦しみのみでなければならない。

(『ベルゼバブが孫に語った物語』二七章)

良心という概念と道徳という概念は、互いにまったく無関係だ。良心とは、普遍的かつ不変のものだ。それはすべての人間のなかで同一だが、緩衝器[自分をありのままに見ることを妨げるもの]がなくなってはじめて、それを感じられる。

さまざまな種類の人間についてあなたが理解できるよう、ここで言うのだが、内側に何の矛盾もない人間にとっての良心というものがある。そのような人間にとって、良心は苦しみではない。それどころか、それは、われわれには理解できない、完全に新しい質を帯びた喜びだ。

だが、数千もの小さな「私」からなる人間にとっては、良心の一瞬の目覚めさえ、苦しみをもたらさずにはいない。だが、そうした良心の目覚めの瞬間がだんだんに長くなり、そして当人がそれを恐れるのではなく、むしろ歓迎し、それらの瞬間を長引かせようとするなら、微妙な喜びの質が、それらの瞬間に宿されていく。それは、未来に得られるかもしれない、曇りなき良心の先触れだ。

(ウスペンスキー『奇跡を求めて』八章に引用されたグルジェフの言葉)