Osho: Two Laws Working on Man

二つの法則

ピタゴラスによれば、二つの法則がある。ひとつは「必要性の法則」、もうひとつは「力の法則」と呼ばれる。必要性の法則は、無意識な人間に適用される。無意識な人間は、必要に迫られて生きている。しかし、必要性を超えた法則として、力の法則がある。人は意識的になればなるほど必要性から自由になる。必要性を超えたもののために生きるようになる。力ゆえ、横溢する力ゆえに生きるようになる。そのときあなたは、必要に迫られて生きているのではない。[……]

この二つの法則は、単一の根本法則を基盤としている。二つの法則は単一の法則の二つの部分、単一の法則が見せる二つの顔だ。この単一の根本法則は、中国ではタオ、インドではダルマ、ギリシャではロゴス、ユダヤではトーラと呼ばれてきた。これらの言葉はこの単一の法則を指している。

実在する世界のすべては単一の根本法則をその基盤としている。しかし、この法則には二つの顔がある。無意識な人間――奴隷として、ロボットとして生きる人間――には、一つの顔を見せる。もう一つの顔は、自由、力、大いなる喜びだが、それを生きるのは、目を覚ました者、光明を得た者だけである。生においてこの二つの法則を調和させること、それがピタゴラスのメッセージだ。

この二つの法則の間に調和があるとき、あなたは調和のなかにある。この二つの法則の間に調和があるとき、あなたの肉体は必要性の法則に従うが、あなたの魂は力の法則に従う。あなたのマインドは必要性の法則に従うが、あなたのハートは力の法則に従う。そのときあなたは、天と地、肉体と魂、見えるものと見えないものの出会いだ。

(Osho, Philosophia Perennis, Vol. 1, Chapter 1)

ピタゴラスによれば、人の行為には二種類の動機がある。ひとつは人の低次の本性に由来するもので、それを必要性と呼ぶ。もうひとつは人の高次の本性に由来するもので、それを力と呼ぶ。しかし、そのいずれも、タオ、ダルマ、トーラ、ロゴスなどと呼ばれる単一の根本法則に依存している。東洋では、人の低次の本性をプラクリティ、高次の本性をプルシュと呼ぶ。ピタゴラスはインドを訪れ、師との間での沈黙の交流を知ることで、この二つの法則の実在に気づいたに違いない。彼は自らの内側にもこの二つの法則があることを知った。しかし、最初にこれに気づいたのは、彼が東洋を訪れ、光明を得た師との間での沈黙の交流を知ったときだっただろう。[……]

肉体は常に地に留まるが、あなたの意識は空の一部になれる。元来あなたの意識は天のものだ。人間とは二つの法則の出会いだ。必要性の法則と力の法則、プルシュとプラクリティ、束縛と自由、天と地、肉体と魂、見えるものと見えないもの、粗雑なものと精妙なものの出会いだ。それが人間の偉大さだが、これは人間の不幸の原因でもある。自分は二つの巨大な力、互いに対立する二つの力の出会いであることを理解しないかぎり、あなたは苦悩のなかに留まる。二つの力があなたを引き裂き、あなたは分裂した状態で生きる。人生は深い不安に彩られたものになる――私は何になりたいのか? これなのか、あれなのか?

地はあなたを下に引き降ろそうとし、天はあなたが上に向かうように誘っている。肉体は「私に従え!」とあなたに命令し、天も「こちらに来るのだ!」とあなたを誘う。この二つはまったく違った誘いであり、その両方に同時に従うことはできないように思われる。それは一見して、ほとんど不可能に見える。肉体に従属するならば、あなたは自らの存在の内奥からの小さな呼びかけを無視することになり、それによって罪悪感を覚える。しかし、あなたがその小さな呼びかけに従うならば、肉体は自分が無視されたと感じ、あなたに対して反逆する。どちらを選んでも問題が生じる。肉体を選ぶならば魂は息を詰まらせ、魂を選ぶならば肉体が不満と愛情不足を訴える。どちらに行っても、必ず緊張がある。これが人間としてあることの不幸だ。

しかし、この二つの法則についてよく理解したならば、二つの間にリズムがあることがわかる。この二つは一見して正反対だが、深いところでは互いを補い合っていることがわかる。すべての対立物はお互いを助けている。生と死、男と女、善と悪は、正反対でありながら、お互いを助けている。どのように助け合っているかを知ったならば、あなたは対立を超える。そしてあなたは自らの偉大さを生きるようになる。[……]

<真実>には肉体と魂がある。その肉体は必要性の法則であり、その魂は力の法則だ。人間はその両方であり、二つの永遠の間に張られたロープ、過去と未来、物質と意識の間に張られたロープだ。そしてこのロープの上を歩くには、高度な技が必要だ。あなたは綱渡りを学ばなければならない。サニヤス――弟子としてあること――とは、この方法を学ぶことを言う。

精神性に目覚めた人は、このロープの上を歩く方法を学ぶ。これはとても危険な業だ。一歩間違えるならば、あなたは転落する。一歩間違えたならば、誤まった方向に行く。ちょっとした過ちが大きな転落を招く。高いところを歩いていればいるほど、あなたの生は危険に満ちたものとなる。しかし、より危険であればあるほど、あなたの生は価値あるもの、意義深いものとなる。「危険に生きよ」とニーチェは言った。それはどういう意味か。都合よく生きる人間は、まったく生きていない。そのような人間の生は、死に向けてのゆっくりとした動きにすぎないということだ。

生は、鋭さのなかで体験される。あなたが危険に生きてはじめて、生はその輝きを見せる。そして、人が冒すことのできる最大の危険とは、必要性の法則と力の法則の狭間を行くことだ。それはヒマラヤの二つの峰の間に張られたロープの上を歩くようなものだ。転落するならば、あなたは自分を見失う。しかし、たどり着いたならば、あなたはこのうえない偉大さを自分のものとする。

(Philosophia Perennis, Vol. 1, Chapter 6)